大学時代は昭和40年4月から同44年3月までだ。
大学の思い出の99パーセントはマンドリンクラブの思い出かも!
以下はマンドリンクラブ50周年記念事業事務局からの依頼で投稿した原稿である。
写真を1枚同送せよとのことだった。2枚送っておいた。
我が青春のマンドリンクラブ 〜1%の想い出〜
勉強第一の浪人時代に、何を思ったか姉が全音ギターを買ってくれた。
受験勉強の合間に、古賀政男の教則本何するものぞと
親指1本で演歌を弾いて楽しんだ。
ハーモニカと違い短調の曲も自由自在だった。
思えばこれがマンドリンクラブ入部への布石となった。
入学式の日だったか、教育学部の一角の新入生勧誘コーナーで、
故人となられた16期の坂野先輩の甘言にだまされて誘拐(?)された。
「高校の先輩だ。先輩のクラブへ来い。」
今も感謝しているうれしい嘘だった。
それまでまともなクラブ経験のない私は恐る恐る部室を訪問した。
以来病み付きになったのは、まさにマンドリンクラブの魅力に他ならない。
4年間阪和線で大阪から通った私だが、
友人の下宿に泊めてもらうこともあった。
1回生の半ば頃、同期の西端、増田、宮脇3君が間借りする
伊東マンション(?)にお世話になった。
宮脇君が「ラグリマ」を弾き出した。
1回生にとっては難曲である。
大柄ベースマンがギターを持つとまるでウクレレのようだったが、
難曲を器用に弾いたのである。
先輩から言われるまま、教則本を順に練習していただけの私は仰天した。
親指1本奏法などの悪癖を矯正されながらマンツーマンで教えてもらえるのは
夏休みまでだったのだ。
あとは自分で挑戦しなければならないことに気付いた。
ある時先輩が弾き語りをしていた。私は伴奏の理屈がわからなかった。
15期の武野先輩に「中学校で主要3和音を習っただろう?」
と言われて目が覚めた。
その時まで私にとっての音楽知識はただの知識以外の何物でもなかった。
2回生になったある時部内発表会があった。
私は暗譜できないまま、タルレガの「アラビア風狂想曲」を演奏した。
それ以後も次々難曲に手を出した。ものにならないと気付いた。
暗譜できないし腕も上がらない。それよりも編曲に興味が湧いてきた。
定演が近くなった。
ご自分が編曲された曲の演奏指導に来られていた今は亡き中川先輩を知った。
編曲を教わりたい私は、家が同じ大阪ということもあり、
何度も先輩の車に乗せてもらって孝子峠を越えた。
運転が心配になるほどずっと音楽の話が途切れなかった。
時には先輩の自宅で独特の3本指奏法による爪弾きをしてもらって
和音の妙を味わった。
中川先輩は、音楽を理論・理屈で理解しようとする私の
くどい質問攻めにも楽しそうに答えてくれた。
後年先輩のバンドのベースをまかされて、
ダンスパーティまわりをしたのはこんな縁があったからなのだが、
急な早世を知った時は信じられない悲しさだった。
私は卒業後も自動車保険でお世話になっていた。
「多重録音してみたから」と軽音楽テープを何度か送り届けてくださった。
先輩の老後はまちがいなく音楽三昧の筈だった。
我がマンドリンクラブの楽譜庫は無数の作品で埋まったことだろうに。
3回生になった。各役員、トップはうまい具合にふさわしい人が選ばれた。
指揮者選びだけ難航したと思う。自信はなかったが決心した。
同期の中では私がなるべきだと思った。ひそかに音楽教養を身につけた。
演歌だけでは務まらない。レコード芸術を購読したのはこの頃だ。
演奏者だった時の自分の身勝手な考えから、
練習ではあまり止めないで演奏するよう心がけた。
指揮をしながら大声と身振りで曲想を伝え、
テンポの変わり目や合いにくいところは、
そのパートに向かって指揮棒を大きく、時に細かく振った。
身振り手振りで踊ったわけだ。
細切れにしない私の指揮を今も覚えていて支持してくれる人がいるが、
この方法がいいのかどうかはわからない。
拙作のワルツを練習開始曲に使った時期はこの頃だろうか。
演奏会が近づくと合奏レベルが上がってくる。
よりよくするためには指揮者自らが成長しなければならない。
エピソード、雑学などまで仕入れたものである。
しかし、所詮は素人の独学、独りよがりからは逃れられなかったのだろう。
ある時16期の山本先輩を通じて音楽専攻の方から「勉強しなさい」と
指揮法、和声法、対位法などの専門書を頂いた。
励まされたのだと良い方に解釈して勉強した。
指揮者としての初舞台は3回生に成り立ての5月、
経済センターでのイブニングコンサートだった。
私は武井守成氏の曲ばかりのステージだった。
和歌山市在住の大先輩(水野氏だったか?)宅を訪問して曲想などご教示頂いた。
昭和の始めにこんな清楚な曲が作られ演奏されていたのだ。
マンドリン音楽の日本における伝統が感じられる選曲だったと思う。
「朝鮮の印象」にふさわしい銅鑼が見つかったのは本番直前だったように思う。
マンドリンの比留間絹子先生をお招きして
「古戦場の秋」を批評していただいたことがあった。
プレハブ教室の音響がよかったのか最良の出来のように思えた。
先生は「指揮者は少し神経質かな」と評された。
細心の注意を払って指揮をしたのだ。
私としては納得できなかったが、スケールが小さいということだったのだろう。
第11回定期演奏会、第12回定期演奏会と想い出は尽きないが紙数が足りない。
OB名簿によると、私が4回生の時の部員数は81名。
現在までの最多部員数だ。ちなみに3回生の時と卒業の翌年が78名だった。
部員数だけで決め付ける言い方を敢えてするなら、
私はまさに全盛時代のマンドリンクラブを指揮したことになる。
なんとも幸せなことだったと思う。
卒業後もしばらくはクラブと直接縁があった。
第16回定期演奏会では21期の指揮者川西君の朗読詩に私が曲をつけた
「風鈴はもうつるさない」が演奏された。
当時の私の持てる力、つまり独学の和声法と対位法に加えて、
中川先輩から盗んだ編曲術のすべてを使って、
3ヶ月間苦しんで作った20分以上の大曲だった。
一緒に聴いてくださった中川さんは
「メインテーマがよかった」と小さく言われただけだった。
レコード化されたので2枚買った。
おかげで今も時々聴いては青春時代を思い出している。
なんと言っても私の最大の喜びと言えるだろう。
50歳を越えた頃、招待券で大フィルの演奏会に出かけた。
挙手をしたら指揮をさせてもらえた。
私への指定曲は「ハンガリア舞曲第5番」だった。
「ダーンダダーンダ」のつもりで指揮棒を振り下ろした。
「ダーン」で止まったかと思えるほどのテンポでついてくる。
私の思うテンポでは誰も演奏してくれなかった。
これは見せしめショーに違いない。
3年前平成15年10月の「OBの集い」では、
OB・現役の全員が私の指揮に合わせてテンポどおり弾いてくれた。
ありがたく、うれしいことだった。
楽譜が読めるようになって、
素人なりに音を組み合わせて編曲できるようにもなった。
パソコンがあれば居ながらにして合奏のシミュレーションが
楽しめるようになった。
私にとってはこれらが余生を支えてくれる宝だと思っている。
経済学がお留守になったことは若干(?)悔やまれるが、
どうにか定年まで持ちこたえて
幾ばくかは社会にも貢献できたわけだから良しとしておこう。
「創部50周年記念投稿」は急遽依頼された。
17期の投稿者がいないことと、私が暇そうだったからだろう。
「全盛時代経験者」にふさわしいものが書けるとは思えないまま、
懐かしい想い出、ほろ苦い想い出を一つ一つ抜き書きしてみた。
瞬く間に数十項目列挙できた。何を書くべきか定まらずあせった。
書き切れなかった合宿などの想い出は、
いつかは自分のホームページにでも書いてみようと思っている。
最後になったが、創部50周年記念祝賀会を見事成功させてくれた
18期井上実行委員長に最大の敬意を表するとともに、
我が青春のマンドリンクラブそのものに対して心からの感謝と御礼を申し上げ、
マンドリンクラブの未来永劫の継続、発展を祈念する次第である。
2回生夏の合宿 駒ヶ根にて
3回生夏の合宿 白樺湖にて
平成21年8月21日
大学のゼミの恩師を偲ぶ会への原稿
本年3月1日の南先生を偲ぶ会は、
たまたま甥っ子の長男の結婚式と重なったため参加できませんでした。
遅ればせながら南先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
南会では、毎回、ご高齢の教え子たちが、
口癖のように「あまり勉強をしなかった」とおっしゃいます。
それを聞いて毎回ほっとしたものです。
かく言う私もそのひとりだったからですが、
先生との出会いや思い出は南会ですべて話してしまっていて、
もはやネタは尽きているのですが、今回の記念出版に際し、
恥を忍んで繰り返しの思い出を投稿させていただきます。
インターネットで「小谷城」と検索すると、
浅井長政の「近江小谷城」とは別に
堺市の豊田にも「小谷城」があったことがわかります。
私が和大に入学した時だったか、
豊田に住まいする叔母から
「小谷城の次男坊さんが和大にいらっしゃるよ」と聞かされました。
それが先生について聞き知った最初だったと思います。
入学後、マンドリンクラブに入って
経済学ではなくギターにうつつを抜かしていた私は、
実家が農家だったというだけで農業政策の南ゼミにもぐりこみました。
一応毎週1度のゼミには顔を出した方ですが、
あまり勉強のしない迷惑な学生だったと思われます。
そんな私が4回生になって某建設会社への就職を決めた時、
卒論のテーマに悩んでいる私に「これからの住宅問題」に絞れば?と
農業政策にこだわらぬアドバイス頂いたりしました。
服装にも髪型にもこだわらない先生の面目躍如たるものがあります!
ゼミの懇親会でアッと驚いたことは、
猥歌などには縁のなさそうな先生が
急に「証城寺の狸囃子」の替え歌を歌われたことでした。
当時は先生以上にまじめだった私が赤面するほどの替え歌の歌詞でした。
卒業まもないころにお電話を頂いたことがあります。
縁談のお話でした。それも婿養子に、とのことでした。
いつのことか詳しく思い出せないのが残念です。
当時の私には彼女がいたから断わったのか、
四男坊の私が失恋中と知って婿養子の縁談が殺到(!)した時期のことなのか、
すでに現在の家内との結婚が決まっていた時期だったのかと!
私の結婚披露宴にも参列して頂きました。
昭和49年10月20日のことでした。
たまたまお見かけしたのは、受付で私へのご祝儀を渡されている姿でした。
右手には裸の紙幣が見えていました。
本当に忙しい中でご無理をお願いしてしまったものです。
先生のその後は毎年の年賀状で知る程度でしたが、
南会が開催されるようになり、
ユニークな諸先輩や先生のかわいい(失礼)奥様ともお会いできました。
毎回飾らぬ先生のお人柄に触れられたことは、
今となれば本当に温かい懐かしい思い出です。
先生に最後にお会いできたのは、
平成20年7月の柑芦会大阪支部総会の懇親会席上でした。
私はマンドリンクラブのギターパートとして
演奏に参加するという形で総会に出席しました。
今となれば悲しい印象ですが、急におやつれになられたようにお見受けしました。
最後まで経済学では先生と接点が持てなかった私ですが、
先生にご無理をお願いして書いていただいた2回目の推薦状にて
地域の金融機関に職を得、
得意な数学的能力で定年までコンピュータ一筋のサラリーマン人生を貫けました。
天国の先生には、定年退職後はもっぱら趣味のゴルフとマージャン、
それにギターを持っての施設慰問、
加えて地域の町会、子供会、老人会、旦那寺などへの
貢献の日々を過ごしていますと胸を張ってお伝えいたします。
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