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BGMは、母さんの歌

ひ と り ご と

   小学校時代の思い出

小学校時代は昭和27年の4月から同33年3月までだ。
私の生まれ育った住吉区は大阪市の最南部で、大和川を境界として堺市と接している。
北東から東南には多くの灌漑用の池、用水路があった。
東南から南西にかけて阪和貨物線(現在は休線中)、杉本町駅、大阪市立大学がある。
西側をJR阪和線が南北に走っている。
大和川は元禄時代に切り替えられたわけだが、人家を避けて大きく南へ湾曲しており、
我家からは東南の大和川、南部の大和川、南西の大和川がほぼ等距離であった。
各々の川原が遊び場だった。
当時は水もまだ比較的きれいで、遊泳できたものである。
山はないものの、川遊びができた田舎田舎した大阪市であった。

小学校の卒業アルバムは焼けてしまったが、他の写真もあまりなかった。
最近になって兄姉たちの写真の中に写っている自分を知ったが、
私の目の届くところにはあまり写真がなかった。
写真を見て思い出す機会がなかったためか、あまりに平穏だったためか、
わずかしか記憶に残っていないのが悲しいなと思っていた。
思い出そうと項目を列挙してみると、思った以上にたくさんあった。
断片的ながらずいぶん記憶に残っているものだ!


1.学校にて
   しばらくは学年順です。

  知能テスト
   知能テストの図形の当てはめ問題が目に浮かぶことがある。
   知能指数がどれくらいだったか知りたい気がするが知らぬが花だろう。
   小学1、2年生の担任は三宅先生という女の先生だった。
   あまり若くはなかったが、派手やかな先生だった。
   先生との思い出があるというより、記念写真に写っているからという感じだ。

  
鍵になり
   3年の担任は森先生といい、音楽専門の森先生という男の先生だった。
   音楽室での音楽の時間、
   曲名は忘れたが、雁を歌った歌で、
   「竿になり、鍵になり」という歌詞の「鍵になり」の意味を考えなさいと言われた。
   誰も手をあげなかった。思い切って手をあげた。
   「乱れて」と答えたら、正解にしてくれた。
   本当は「曲がって」という意味だから、今も時々気になって思い出す。


  人気取り?
   3学期になっても学級委員長に選ばれなかった。
   誰かに言われて気にしていたのか、人気取りをしたような思い出がある。
   当時の月間誌「少年」は毎月5冊くらいの別綴じ漫画が付録としてついていた。
   何冊も学校に持って行って、気前よく貸してあげた。
   あれは人気取りだったような気がして時々心が痛む。

  
学級委員長
   3年から4年への進級の時、事情はわからぬが、持ち上がりではなく先生がかわった。
   新しい先生は石坂先生(男)で演劇が好きな方だった。
   人気取りの成果か、1学期から学級委員長になった。
   小さい頃にはこんなことを気にしていたのだろうか。


  
悪戯
   4年の時、小さかったから座席は前から3番目ぐらいだったと思う。
   ある女の子が先生に呼ばれて私の右横の通路を通る時、
   いたずら半分に足を出した。
   すばやく引っ込めるつもりが間に合わず、
   佐藤さんというその女の子は勢いよく倒れた。
   先生にひどく叱られた。殴られた。恥ずかしかった。
   当然ながら先生を恨むなんて考えなかった。
   大した怪我でなくよかったが、先生もびっくりされたと思う。

  
初恋?
   同じく4年の時、クラスメートにおしゃまな感じの大変かわいい女の子がいた。
   名前も覚えているが書くわけにはいかない。
   何の行動も起こさなかったが、今もそれが女の子を好きになった初めだと思っている。
   中学生になってからか、一度だけどこかで目にしたことがあったが、
   全く雰囲気が変わってしまっていて、ドキドキもしなかった。

  テスト 2006.3.24
   5年だったか、6年だったか、あの渡辺先生から、
   返したテスト用紙を持ってとなりのクラスへ行きなさいと言われた。
   となりのクラスの先生は竹内という女の先生だったが、
   あらかじめ打合せができていたらしく、
   先生は私の答案用紙をみんなに見せてほめてくれた。
   よく意味がわからなかったが、たまたま100点はひとりだったらしい。
   変なほめ方だと思ったのかいまだに忘れられない。

  
トイレ
   小学校の男子トイレで個室を使おうとすると、なぜかまわりが囃し立てる。
   それが嫌で学校では使わなかった。
   毎朝決まったように家で済ませるようにしていたが、体調が悪いこともある。
   自宅まで5分だからよく走って帰ったものだ。
   一度だけ間に合わなかったことがある。あと数十メートルだった。

   中学、高校へは電車通学だったので家まで走って帰れない。
   体調が悪い時はいろいろつらかった。


  
ドリル
 2006.3.24
   高学年ともなるとドリルの宿題が多くなった。
   だんだん難しくなり簡単には解けない。
   参考書もなく、家で誰かに教えてもらうということをしなかったためか、
   わからぬままにいい加減に答を書いたいやな思い出が残っている。

  
和尚さんと小僧さん
  2006.3.24
   5年の時、4年の時担任だった演劇の先生のすすめで劇に出た。
   先生が和尚さん、6年生の久保さんが年上の小僧さん、私が年下の小僧さん。
   配役は3人だが結構大掛かりな劇だった。
   PTA懇談会か何かの催しだったのだろう。
   直前に鬘が嫌で、くりくり坊主にしたが、
   それも恥ずかしくて講堂のカーテンに隠れたことを思い出す。
   隠すとよけい恥ずかしくなるものだ。
   頭部左に、小さい時のおできのあとか、三日月型の禿があったから
   よけい恥ずかしかったのだと思う。
   写真が1枚残っているだけで、
   筋書きその他は印象に残っていないくらいだから、
   私は演劇に興味がなかったのだろう。

  
坊主頭  2006.3.24
   5年の演劇で坊主頭にした。
   恥ずかしくてまた長髪に戻したが、
   中学では結局坊主にしなければと言われ2度目の坊主頭。
   6年生の時の写真は坊主で写っているのが多い。
   本人のあまり知らぬところで文の里中学校への越境が決まった。
   文の里では丸坊主を強要していなかった。

  
都会ッ子  2006.3.24
   4年生の頃、今の地下鉄あびこ駅南側付近に、
   平屋で2軒続きの府営住宅や市営住宅が数多く建てられた。
   結果転入生が多くなり、地域の元の友達とはどこかが違う新しい友人が増えた。
   服装や、食事、言葉が違っていた。
   いさかいやいじめがあったかどうかは、例によって鈍感な私は何も知らない。
   オムレツ、オムライス、チキンライスなど、食べたこともなかったので
   区別がつかなくて恥ずかしかった。
   友を家に呼ぶ時に、我家が古い農家で汚いと親を困らしたようである。
   そんな住宅は数年前にすべて高層住宅に建て替えられた。

  
給食 2006.3.26
   酸っぱいカルピスや焦げ臭いミルク、パンもおいしくなかった。
   食わず嫌いの私は、マカロニなども食べられず給食はあまり好きではなかった。
   カルピスも牛乳もマカロニも今は全く問題ないのに。

   家では何を食べていたか思い出してみても名の付く料理はなかったと思う。
   農家だったから季節の野菜はすべて自家製だ。
   キュウリ、ナス、トマト、にんじん、大根、キャベツ、白菜、エンドウ、ピーマン
   カリフラワー、ジャガイモ、サツマイモ、こいも、イチジク、当然お米、、、
   お漬物はタクワン、キュウリ、ナス。浅漬けではなくひね漬けだったから年中あった。

   最近の子供たちは給食がおいしいという。
   家でもおいしいものを食べているだろうに。家が手抜きかな?

  
浪曲 2006.3.26
   父が浪曲好きで、歌というものがわからなかった。
   簡単な歌を教えても浪花節にしかならない。
   家族の集まりでは延々と唸るので閉口したものだ。
   いいところを5分くらいにおさえてとアドバイス(?)しても、
   いいところはそんなに短い時間では出来ぬの一点張り。
   そんな不器用な父を見て育ったのだろうか、
   口では嫌っていながら口真似をしたものだった。

   何かの付録に載っていた、「名月赤城山」か何かの一節を自己流の節で覚えていた。
    義理の片割れ月夜の烏
    鳴いてくれるなお前が鳴けば
    背中のかん坊目を覚ます
    いたわり浅太郎向こう見ず、、、
   小学4年か5年の時、どういうきっかけかは覚えていないけれど教室で唸ったことがある。
   前に出て、恥ずかしいからと黒板の方を向いて。
   恥ずかしいのならやらなきゃいいのにとは回想時の自己批判です!

  
ブランコ 2006.3.30
   ブランコはあまり好きではなかったが、乗るには乗った。
   何年生の時だったか、乗っている最中にふと変な考えがよぎった。
   肩の位置の両手をもっと下に下げてみたくなった。
   あっというまに重心が変わったのだろうごつんと頭から落ちた。
   バカなことを考えたものだが、
   最近、孫をブランコに乗せるたびに思い出して注意を怠っていない。
   それなりに経験が役に立っているわけだ!

  
短文 2006.4.5
   国語の授業が好きだったわけではないが、
   指定された副詞などを使って短文を作るのは得意だった。
   社会に出て、たまに変な日本語に出合うと小学校時代の短文作りを思い出していた。
   最近読んだ本に「国語のできる子どもを育てる」(講談社現代新書:工藤順一)
   という素晴らしい本があった。孫との遊びの中で生かしていきたいと思っている。

  水泳

  
越境  2006.3.24
   おおっぴらに書いて良いのかわからないが、もう時効だから書いておこう。
   最近知ったのだが、我がクラスからだけでも10名以上が中学へ越境進学したらしい。
   良い悪いではなく人生の分岐点であった。
   その後の進路に少なからぬ影響があったわけだが、
   入学時点で友人がほとんどいない中学生活、電車通学のこと、
   近所の友人との遊びがなくなったことなど失ったものも大きかったと思う。
   自分の娘には、そんな反省からか越境は考えなかった。
   もうそんな時代ではなかっただろうが。

2.遊び
  
エビガニ(ザリガニ)釣り
   地下鉄あびこ駅の東側約200メートルぐらいに、
   北は長居公園から、南は大和川まで「大溝」と呼んでいた灌漑用の小川があった。
   蛙を捕まえて残酷にも後ろ足から皮をむき、糸の先にくくりつけ、
   キュウリの蔓を支える竹を釣竿にしてのエビガニ釣りは楽しい思い出だ。
   糸がスーと動き出すとそっと引き上げ網ですくう。
   時にはバケツ一杯とれた。もちろんボイルして食べた。
   今は寄生虫がわくなどと言って食べないと思う。
   そういえば一度だけ回虫を飼っていたことがあったっけ!


  
池釣り
   近くに灌漑池がたくさんあった。
   初めての日曜大工であろう釣り道具箱を自転車にくくりつけて、
   竿受けなども竹と針金でこしらえた。
   釣果はフナ、モロコばかりだったが、
   風のない日の水面にじっと浮かぶ浮きをドキドキしながら眺めるのが好きだった。
   風でさざなみが立つ日はきらいだった。

   苅田地区の池でタナゴが異常繁殖したこともあった。
   それも熱帯魚のように赤みがかっていた。
   モロコと同じく餌をつつくばかりであまり釣れなかったような記憶がある。

  
川釣り
   川は浮きが揺れるし流れるので嫌いだった。
   1度だけ大水の後、川の流れが変わり入江のような深みが出来たことがあった。
   同じく釣り好きだった故直人兄に連れられてその入江でハスを釣った。
   異常繁殖だったのか、大群が集まったのか面白いほど釣れた。
   最後は浅瀬に入って手づかみも出来た。1度だけの出来事だった。

  
野球
   小学校2年ぐらいの時に兄がグラブを買ってくれた。
   大事に使ったが、役に立ったのは5年、6年の頃だと思う。
   大きいのに買い替えてもらったのかどうかは覚えていない。
   その時でもユニフォームなどは誰も着ていなかったと思う。
   当時は大阪市立大学の北西部分は進駐軍の宿舎跡だったのか、
   傷んだ建物が放置されており、雑草が生い茂っていたが、
   幅の広い舗装道路が遊び場だった。
   細長いグランドではノックをして遊ぶのが精一杯だった。

   私は左ピッチャーでエースではなくてビースだった。(Aの次)
   溜まり場となっていた染谷家の庭でキャッチボールをよくしたものだが、
   今なら考えられないことだがだれも叱らなかった。

   我が実家の前に一時的に空き地が出来たことがあった。
   数少ない四角いグラウンドでの野球はここでしかない。
   一度だけ私の打ったライトライナーが近くの家に飛び込んだことがある。
   その家の前を通ると今もガラスを割ったことを思い出すことがある。

  手打ち野球
   学校の休み時間には、軟式テニスボールのような柔らかいゴムボールで手打ち野球をした。
   楽しかった記憶があるが、最近の子供はこんな野球をするのだろうか?

  
やんま釣り
   やんまとりではなくてやんま釣りである。
   何故か夕方の風景が浮かんでくる。
   近所の田んぼの上空2メートルくらいを周回するやんまに向かって、
   50センチくらいの糸の両端に小石を紙に包んでくくりつけた疑似餌を、
   上に向かってくるくる回るように放り投げる。
   本当に釣れたのは1度だけだったと思うが、
   麦わらトンボやシオカラトンボよりはずっと大きく、
   銀色の羽、緑の胴体の先が明るい水色のやんまは宝物のように美しかった。

  
きりぎりすとり

  
花札
   近所の友が持っていた花札は、
   花カルタと呼ぶべきと思うが、トランプ大の薄いボール紙製だった。
   これで花合せを覚えた。
   子供が花札を知っているのは、あまりほめられたものではないとは後年知った。

  
カルタ
   犬棒カルタではなく、今思えば喫茶店のメニューのようなカルタだった。
   あんみつ、三つ豆、アイスクリーム、コーヒー、などが原色で印刷されていた。
   味わったことも、目にしたことのないものばかりでおいしそうだったことだけ覚えている。

  
将棋
   もっぱら山崩し、ピョコまわり、はさみ将棋、蛙とびなどで遊んだ。
   本将棋を覚えた頃、となりのひとつ下の友にこっぴどく負けた。
   後年鬼殺しという有名なはめ手とわかったが、
   その後30歳前後に将棋に再チャレンジするまであまり指さなかった。
   たくさんの将棋本を読んだ割りに強くならないのは才能がないということだろう。


  
五目並べ
   長兄、三兄は時々囲碁を楽しんでいた。
   私はもっぱら五目並べが得意で、
   兄達や、兄の工場の職人や、強かった義姉などと互角以上に戦った。
   今でいう連珠だが、ルールはもっと簡単だった。
   囲碁は未だに初心者のレベルである。

  潜水艦、帆掛舟

  
くちほんかん

  
ベッタン
   野球選手や漫画の主人公などの紙カードだが、
   たくさんためてながめるというよりは、
   ひっくり返しあいで取り合いをした。
   何枚か出し合って、縁側などから1枚ずつ指ではじきながら、
   落ちない2枚重ねを作れば勝ちという取り合いもあった。
   これも賭け事だったのでいい遊びとは思われなかった。

  

   ラムネ玉遊びのことだ。
   家の前の道はまだ地道だった。
   犬走りのある近所の塀に沿って、ある高さからラムネ玉を落とすと、
   出っ張りにあたって2、3メートル転がる。
   遠くまで転がった方がその場でもう一方のラムネ玉に当てると勝だった。

   別の遊び方は、地道に1メートル幅の線を2本引き、線の外側に小穴を掘る。
   いくつかずつ玉を出し合い、集めた玉を反対側の線から、
   1度に小穴に投げ入れる。
   相手は、はみ出た玉の中から、一番当てにくそうな位置の玉を指示する。
   その玉を持ち玉で当てれば勝ちとなり全部もらえる。

   どちらも賭け事になるのでおおっぴらには遊べなかった。

  
バイ
   標準語ならベーごまというらしい。
   我が娘が小学生の時、イベントで昔遊びコーナーがあった。
   私はベーごま回しを子供たちに教えたが、保護者もあまり知らなかった。
   その時、日本橋などで売っていたベーごまは凹部がなかった。

   私が小学生の頃は中央がへこんでおり、背も低く(つまり重心が低く、
   中にろうそくの蝋を入れたり、角を強そうに斜めに摩り下ろして格好よかった。
   何分、鉄ごまということで危険もあり禁止されていたので、細い路地などで隠れて遊んだ。
   現に、ベーごまがぶつかった時の鉄片が目に刺さって遠くの目医者に通った人もいた。
   私はといえば、左利きだったので、
   回転の向きが違うためあまり仲間に入れず欲求不満気味だった。
   みかん箱にござやシートを張り、1、2の3で両コーナーから戦わせるのは
   今でも遊びたい夢のひとつだ。

  
こま

  竹馬
   しばらくは3番目の兄の思い出でもある。
   その兄は一昨年暮れに亡くなったが、小さい頃の思い出にはよく登場する。
   とにかく器用な兄だった。器用貧乏を嫌がった結果、残念な一生だったが。

   ある時、その兄が竹馬を作ってくれた。
   竹の代わりに杭と板で作った竹馬だったが、
   僕にとって、竹馬とはこの竹馬が思い出される。
   実際に竹馬で遊べたのは貴重だと思う。

  
竹鉄砲
   鉄砲を作ってやるというので兄のすることを見ていた。
   竹をいくつにも切っていた。節なしで20センチ位と節付きで7センチぐらいだ。
   どんな鉄砲かと期待していたが、簡単なものだった。
   節つきの方に割り箸を差込み、固定し、
   節なしの竹に突っ込んで1センチぐらい余るようにするだけだった。
   新聞紙を水につけて柔らかくし、節なしの両端に詰め、
   片一方から節つきの割り箸で押し出すとポンと弾丸が飛び出す。
   チリ紙などを使わなかったのが時代を洗わしているかも。
   大きくなってからもたまに同じ物を作った記憶がある。
   鉄砲というより鞘付きの刀にしたのかも。
   
  
模型飛行機
   学校の前に文房具屋があり、組立飛行機を売っていた。
   ある時3兄が買ってきて組み立てるところを見た。
   竹ひご、ニューム管、プロペラ、ゴムなど、とても小学生では作れそうもない。
   今のセットとはずいぶん違うように思う。
   後年次女が生まれた頃、よく似たセットで1機作って、
   グリーンピア南紀で飛ばしたことがあるが、兄のほどは飛ばなかった。
   
   兄は本当に器用だったのだろう。とにかくよく飛んだ。
   一度グライダーも作ってくれたが、我家の裏の畑から東に向かって
   糸で上空まで上げ糸をはずすと、近くの学校の向うの畑まで飛んだ。
   当時学校の東側は未知の世界だったのに。

  
凧揚げ
   真四角な凧をイカと呼んでいた。
   寒い正月だったと思うが、3番目の兄が手製の大きなイカを作ってくれた。
   雀追いに使う、細くはないロープで揚げるので子供一人では無理だった。
   風音を出す工夫もしてあったらしく、寒風のを受けて、裏の畑の上空を、
   高く、遠く、唸りをあげて舞っていた光景を今も思い出すことがある。

  
ローラースケート
   何年の時だったか、次兄がローラースケートを買ってきてくれた。
   庭の端っこで履かせてもらい、紐を結んでもらった。
   立ち上がった途端ひっくり返ってしまった。
   私の実家は農家だったので、作物を干すためか庭はコンクリート張りだったが、
   目が荒かったので、がたがたしたすべりだった。
   当時は舗装道路もなかったので遊ぶ場所は限定されていた。
   高学年になってからはもっぱら手押し電車ごっこに使った。
   線路はロウセキで描いた。退避線や駅や。


  
空気銃
   1)次兄から聞いた話である。
     私には3人の兄がいた。長兄が空気銃を持っていた。
     弾丸の代わりに大根だったか芋だったかを詰めて
     弟達めがけて狙い撃ちしていたとかいう話だ。
     幸い怪我はなかったようだが、
     当時の空気銃は鉛弾で雀を打ち落とせるほどの威力があった筈。
   2)空気銃で雀を撃つというので、近所のお兄さんの後をついて行ったことがある。
     まさに引き金を引くタイミングを横で見ていて、
     思わず力がはいり発射と同時に首筋を傷めたことがある。
     しばらく首が回らなかった。
     そのお兄さんは今も近所に住んでおられる。

  
ロケット
   鉛筆のかぶせにマッチの先の燐を削って入れ、
   鉛筆にかぶせて、下からろうそくであぶる。
   しばらくすると、ロケットのように勢いよくかぶせが吹っ飛ぶ。
   危険だがスリル満点だった。
   危ないことをしたもんだ。
   

  
チャンバラごっこと日本刀

  
インディアンごっこと弓矢

  
缶蹴り

  羽根つき 2006.3.26
   ある年のお正月、従姉が二人遊びに来た。
   庭ではねつきをした。楽しかった。
   二人とも年上で、女性を意識したわけではなく、
   ひとめ、ふため、ミヤコシ、嫁後だったか。
   晴れ着を着て、初めて遊んだ「はねつき」の風情が楽しかったのだろう。
   また遊びたいと思いつつ未だ実現していない。

  
鉄道模型 2006.3.26
   近鉄百貨店で電気機関車の模型を見てゾクっとした。
   それ以後60歳の今も遊んでいるが、
   私の弱点でもある「ほどほどの趣味」にとどまっている。

3.農家の生活
  牛
   我家は牛も飼っていた。もちろん農作業用だが、
   飼い葉となる藁を積み上げた納屋には6畳くらいの牛小屋があった。
   長兄たちと遊んでいて、藁を切る押し切りという刃物で3兄が胸に大怪我をした話はずっと後に聞いた。
   藁と糠スープ(?)をおいしそうに食べる牛をながめたりしたものが、
   のどかな鳴き声は今も耳に残っている。

   ある時、大和川の南側にある畑に連れて行ってもらったことがある。
   牛に牽かせた細長い4輪荷車を馬力と呼んでいた。
   この呼び名にはなにも疑問を感じなかった。
   藁を一杯積んだ荷車の頂上で約1時間の旅だった。
   今ではあびこ大橋ができ10分とかからない川向こうである。
   川向こうは亡き母の里でもあった。

   直接牛に乗せてもらったこともある。
   ちょっと乗って、怖くてすぐに降りたものだが、
   ズボンも手も茶色に汚れてしまい閉口した。
   義父にこの昔話をすると、
   「お前とこのおやっさんの手入れが悪いからだ」と一言で片付けられた。
   義父は、牛の手入れにかけては誰にも負けないほどだったとは相手が悪かった。

  
やぎ
   いつの頃からか庭でやぎを飼っていた。
   何度か子やぎも見た。
   子やぎは生まれて数分(数時間?)で立ち上がり、歩き始めた。
   なんとも可愛い姿だったが、子やぎはしばらくするといなくなったことには今気付いた。

   かぼちゃやキューリを切って与えると本当においしそうに食べる。
   ウメーという鳴き声はまさにこの時の鳴き声かも?

   小学校の給食のミルクはまずかった。時には焦げた臭いさえした。
   そんなわけで牛乳嫌いになりかかっていたが、やぎのミルクはおいしかった。
   かすかに甘味がありずいぶん飲んだことを覚えている。
   ミルクの搾り方を教わった記憶もあるが詳しく思い出せない。

   ある冬の日、やぎがいなくなった。
   父がさばいて裏の細場に吊るしてあった。
   ずいぶん父を非難したことだと思う。
   気持ちが落ち着いたある日から、包丁を持って肉を削ぐ自分がいた。
   やぎの肉はおいしかった。
   死してなお飼い主の役に立つのは本望だろうと、当時勝手に納得したのだろうか。

   そういえば鶏などもよく家で料理していたようだ。

  
納屋
   長兄がメリヤス織り場に改造したが、広い納屋もあった。
   ここで覚えているのは藁仕事だった。
   正月のしめ飾りはもちろん、時には藁ぞうりも編んでいたような記憶がある。
   まさに「母さんの歌」の世界は私にもあった。
   雑穀機などの農機具も見たことがある。石臼ももちろんあった。
   一石くらいの竹篭3つくらいにトマトが一杯入っていたこともある。
   小さくて赤いトマトを食べ飽きるほど食べたっけ。

  薪

  
種もん

  
雀追い

  
麦畑

  甥っ子

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