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焼け出され記

  18.焼け出され記
     自宅全焼時の記憶を思い出しながら書き綴ってみます。


      12月8日は我家の火災記念日です。(1998年のことです)

      火災直後の生活は、誰もが経験するわけではないので、
      思い出しながら書いておこうかなと思います。
      あまりにいろいろあったので適当なタイトルをつけて箇条書きにしてみます。

    1.第1報
      第1報を受けた時、私は堺のカニ道楽で忘年会中だった。
      携帯が出回り始めた頃で、何回も携帯にかけてくれたらしいが、
      家内が持っていた携帯番号にかけていたようだった。
      家のどこかで鳴っていたのだろう。
      当時の部長の家などに連絡して場所をさがしたらしい。
      連絡してくれた甥っ子があまりにのんびり話すので
      冗談としか思えなかったことを思い出す。
      「かーちゃん!家焼けたでー」
      お芋が焼けたようなのどかな声だったのは照れ屋の甥らしい。
      みんな無事だけどダックスたちはダメだろうとも言っていたっけ。
      犬好きの甥らしい言い草だった。
      家族が無事と聞いて一安心したもののまだ信じられない。

    2.帰路
      自転車通勤していたのでとりあえず自転車で家に向かう。
      今考えれば、タクシーで帰れば少しでも早く着いたのに!
      まあ自転車でも20分、タクシーならラッシュ時だから15分かかったろうけど。
      こぎながら考えたことは、「本当かな?しかしこんな冗談を言う筈がないし、、、」
      家から約200メートルの踏切まで帰ってきても
      サイレンも聞こえないし火事の気配はない。
      あと100メートルの4つ角でホースが何本か交錯しているのに気がついた。
      やっぱり火事だったんだ!

    3.帰宅
      家のまわりはホースが何本も走っていた。
      カヘイさんが帰ってきたというささやき声が何回か聞こえた。
      ほぼ完全に焼け落ちて、火は消し止められていたが、
      煙があちこちから出ていたのを覚えている。
      義父と家内は事情聴取で警察へ。
      消防署も警察も私は部外者のような扱いで結局手持ち無沙汰だった。

      2009年5月5日、もういいだろうとカメラ店の兄が写真を持ってきてくれました。
      渡しそびれたようですが、今は懐かしい思い出です。

      
      
      
      
    4.事情聴取
      警察も消防署も私を相手にしない。
      義父と家内については同じことを何度も何度も質問してきたらしい。
      ある意味で当然とは思えるが、、、

    5.ペット達
      3匹のダックスは一斉に逃げ出して無事だったようです。
      親、子、孫の3匹だったが、親は仮住まい中に交通事故で死んだ。
      黒猫は逃げ延びた筈だが、結局帰らなかった。

    6.なぜ全焼?
      元々農家だったのでかなり広い家だったのに数十分で焼け落ちるとは!
      後できいたところでは、
      6時過ぎというラッシュ時だったので
      JRの踏み切りが上がらず消防車の到着が遅れたとか、
      古い村の中で道路が狭かったとか、
      夕食時で水圧が低く、貯水漕からの引き込みもうまくいかなかったとか。

      何よりも初期消火ができなかったのが最大の原因だろうと私は思っている。
      縁側で失火した義母が、既にボケが進んでいたため火事だと訴えず、
      丁寧にガラス戸を閉めて台所でちょこんと座っていたという。
      ガラス戸の向うが真っ黒な煙で一杯になった頃、
      義父が気付いて戸を開けたところ火の手が一気に広がり、
      かろうじて勝手口から3人が逃げ出たとのことだった。

    7.再出火
      あたり一面水浸しの焼け跡にもかかわらず、夜遅く火が出たらしい。
      残り火とは恐ろしいものだが、消防署は当然警戒していたので大事に(?)至らなかった。

    8.その夜
      何も持ち出せなかったので、残ったのはその時着ていたものだけ?
      どこで手に入れたのか、近くの会館で寝れるよう、
      近所の人や姉兄達が準備してくれていた。
      いつもは子供会などの打ち上げで使用する部屋に、
      布団をべたっと敷き詰めて、
      何を考えて眠り、起きて何を思ったかは覚えていない。
      寝付けたのは私が炎を見ていなかったためだろうか。

    9.消防署へ
      翌日だったか、もっとあとだったか、
      いろんな手続きに罹災証明が要るので手続きに行く。
      署員は親切に対応してくれた。
      「火事にあうのは特別なことと皆さん思っておられるが、
      どこの家も明日は我が身の危険があるのですよ」とは署員の弁。
      原本が必要といわれると予想し、罹災証明を9通請求したら
      驚いていたが発行してくれた。
      結局大部分はコピーでよかったので、今もたくさん余っている。

   10.現場検証
      大掛かりな現場検証が行われた。
      火元は多分仏間だろうと思っていたが、一番燃えていたのは縁側だった。
      義母はボケる前、喫煙の習慣があって、
      日頃は注意して隠していた仏壇のマッチをこそっと手に入れて、
      ばれないように窓際で火をつけたらしい。
      火がカーテンに燃え移り、こわくなり台所に駆け込んだものと推定された。
      現場検証はなるほど大したものだ。

   11.仮住まい
      2日目からは、たまたま建て替えるべく立ち退き交渉中の
      古い文化住宅の2階がまるまるあいていたので、
      階下への気遣い、水が流れにくいトイレ、すきま風の建具ながら、
      2軒分を住まいに、残りの3軒を物置にして贅沢な(?)生活をした。
      ご近所のあちこちの押入れにしまわれていた、
      古い冷蔵庫、ホームコタツ、洗濯機、テレビなどの活躍できる場が
      我が仮住まいだったとは後で知った。ありがとうございました。
      
      生活必需品だけでなく、ちょっとした飾り物までいただいた!
      物置は、焼け跡からの回収品、親戚・友人・知人からの使い切れないほどの
      衣類などの差し入れ物の保管に使った。
      朝起きて文化住宅の2階のベランダから、
      下を見下ろす生活は案外明るくいいものだった。

   12.焼け跡
      火事場荒らしに備えて外壁の崩れた部分などをふさいでおいたが、
      やはり銅線などは盗まれた。すごい人たちがいるものだ。
      仮住まい中も時々さがしものをしに懐中電灯を持って入ったものだが、
      日に日に独特の臭いが鼻につきだしたのを覚えている。

   13.サイレンの音
      時は冬、我家の火事の後も消防自動車のサイレンの音が絶えない。
      その度にびくっとするくせはしばらくなおらなかった。

   14.焼け跡探索
      何もかもなくなったとはいいながら、親戚の人の応援を得てのその後の調査で
      いくつかが回収できた。出来なかったものも含めて思い出してみる。
      権利証、契約書など
       まわりが焦げてはいたものの判読できる程度で回収できた。
       さわると灰が落ちるので一つ一つ袋にいれて保管中。
      指輪
       元あった場所近くの灰をつついていたら、ダイヤの結婚指輪が出てきた。
       ダイヤの輝きは損なわれていなかった。
       早い時期に床に落ちたためだろうか?
      写真
       アルバム等はまわりが焼けこげていたものの、かなり回収できた。
       はがして、洗って、アイロンかけて、焦げ目を切り取って、、、
       面倒な作業はずっとあとからになったが。
      本、楽譜
       あちこちに分散保管していた数千冊の本は、
       99%使い物にならないと判明。残念なことでした。
       分厚いカバーにはさんでいたごく一部の楽譜だけは回収後コピーして使えている。
      CD
       すべて飴の塊のようになっておりパーだった。
      お雛様
       7段飾りのお雛様は、箱にはいったままほぼ無傷で回収できた。
       金属製のひな壇が回収できなかったのは合点がいかない。
      大工道具
       地面近くにあったものは使えた。
      床下収納庫
       無傷だった。お漬物など大したものはないのに。
      日本刀
       私の父からもらうとき、時価2、3百万円と聞いていた無銘の村正は、
       刀置きに飾っていたため、中空でよく焼けてただのくず鉄になった。
      着物
       義母が買い集めていた着物類は、値段を聞くと驚くほどの量が灰になった。
      札束
       焼け跡を点検した時に札束の形をした灰が見つかった。
       ダックスの繁殖で義父が40万円くらいの現金を
       しまっていたらしいとはあくまでも推定です。
       やはり現金は銀行へ預けるべきだな。
      記念硬貨
       焼け残ったが、黒くくすんで今もそのまま保管しているだけ。
      自家用車
       幸い家の駐車場においていなかったため無傷だった。
       中に入れていたゴルフバッグも助かった。
      携帯電話
       家内のものはダメ、私のものは充電器がだめ
       充電器だけを買うより、機種替えの方が安いとかで結局買い替えた。
      印鑑
       いくつかは焦げていたが使えた。ケースに入っている実印などは助かったが、
       私の机に入れていた自分の実印は跡形もなかった。
       机の近くに塗料を置いていたからよく燃えたんだろう。
       机のまわりからはほとんど何も見つからなかった。

   15.銭湯
      昔から銭湯は数えるほどしか行ったことがない。
      お風呂屋さん行きグッズをしつらえてもらって男湯へ通うこと8ヶ月あまり。
      面倒ではあったがなつかしい。
      私がおとなしかったためか、
      お風呂屋さんの奥さんは道であっても今はもう覚えていないらしい。
      義父は親戚のお世話になっていた。
      家内と長女の3人で使うとお風呂回数券はすぐになくなる。
      次女は信州で下宿中だったので仮住まい生活はあまり知らない。
      それにしても、お風呂のお湯は熱すぎて、なかなか長湯できなかった。

   16.近隣被害
      昔は火事を出すと3代恨まれるとか、村には居られないとか言われたらしい。
      幸い風が弱かったため大きな延焼はなかった。
      自分の家よりまず謝罪にまわれと言われて、ようやくそれもそうだと気付いた。
      直接接しているのは北に1件、西に2軒、道路を隔てて南に4軒、東に1軒。
      被害の程度に応じてお見舞いした。
      いろいろあって、詳しくは書けないが、温かいお心遣いもたくさんいただいた。
      熱気でプラスチックの雨どいなどが熔けるほどの炎だったようだ。

   17.火災保険金
      失火した義母が以前に火災保険に入っていたのは知っていた。
      相当な額の年払額に驚いたものだった。
      こんな大きな保険に入ってなどと娘(我が家内ですが)に言われていた。
      こんなわけで、果たして今も解約せずに残っているのだろうかというのが最初の不安。
      農協の建更という保険だったが、さっそく近くのJAに問い合わせ。
      解約していなくてほっとした。
      全焼か半焼かなどと疑う余地もなかったのであっさり保険金が出た。
      気持ちよい応対に感謝したものだが、我家の火事の後契約が増えたとか。
      冗談で焼け太りなどと言われたことがあるが、とんでもないことである。

   18.お向いさん
      遠い親戚にあたるお向かいさんは、火事の直後から親身になって我家を心配してくれた。
      仮住まい中や、新築中はずっと空家を守ってくれた。
      逆の立場であったら、とてもそこまでと思えるほどの親切だった。
      あらためてここでお礼を言っておきます。本当にありがとうございました。

   19.義母のこと
      義母の失火はもちろんおとがめなし。
      今回の事態をきっかけに特別養護老人ホームにお世話になることになった。
      ただ、最初のホームでは、
      入居日に、どういうわけかもろくなっていた腰を骨折して、
      救急車で松原の病院に運ばれることとなった。
      2ヶ月ほどの入院の後、現在のホームに入所できた。
      自宅の火事のことなど、何も覚えていず、
      私はもちろん、自分の娘さえもなかなか思い出せないものの、
      嫁ぐ前の自分の娘時代のことは少し覚えているようだ。
      思い悩むことのない平和な生活が送れて今は一番幸せに見える。
      最近は、孫や、ひ孫を連れて行ったり、
      ギターを持って行って古い歌を弾いてやることがある。
      機嫌のいい日は歌ってくれる。
      反応のある曲は、君が代、籠の鳥、戦友、悲しい酒など。

   20.必需品買出し
      火事の翌々日から仮住まい生活が始まった。
      家をあげての買出しの連続だったわけだが、私の守備範囲だけ思い出してみる。
      (1)携帯電話
         最初に困ったのは連絡手段の確保ということで、携帯電話の機種換え。
         上にも書いたが、ポケットに入っていた携帯電話は無事だったが、
         充電器が焼けた。充電器だけ買うより機種換えのほうが安いという、
         変な理屈でレベルアップできたわけだ。
      (2)事務用品
         鉛筆、ボールペン、ノートなど、普段は有り余っていたものを買うのは変な気持ちだった。
      (3)認印
         一部の印鑑は使える状態だったが、認印などが不足した。
         私の実印も新調した。
      (4)道具箱
         仮住まいを住みよくするためにも道具が必要と、思い切っていい道具箱を買い、
         ひととおり揃えた。小物以外にスクリュードライバーなども買いなおした。
         あとからいくつか焼け残っていたのを義父が保管しているのを知った。
      (5)パソコン
         日本橋のソフマップで東芝のノートパソコンを買った。
         このパソコンはその後次女が大学で使い、
         最近では老朽化のため休眠中だが、買値は一番高かった。
      (6)ギター
         とりあえず1つは欲しかったので安いギターを買った。
         白浜にひとつ、信州の下宿にひとつ残っていたっけ。
      (7)書籍
         各種辞書、道路地図、医学全書、ギター教則本、曲集などを買ったっけ。
         古本屋へもよく通った。持っていた本があればまた買ったりした。
      (8)ラジカセ
         とりあえずCDとテープが聴ける環境をと少しましなラジカセを買った。
         必然的にCDなども買い集めたっけ。
      (9)カメラ
         比較的廉価な一眼レフを買った。
         自宅新築時にはずいぶん活躍した。

      必需品から、ぜいたく品にかわっていくものだ。

   21.お見舞いとお礼状
      火事の翌々日から多くの方がお見舞いに来てくれた。
      記録し、専用口座を作りお見舞金の管理もしなければならない。
      延べ300名以上の方から数百万円のお見舞いをいただいた。
      全く面識のない方や、ごくわずかのつながりしかなかった人からも
      お見舞いをいただいていたことを知った。
      品物でのお見舞いもたくさんいただいた。
      火事のお見舞いはお返ししなくてよいとの慣習には従ったものの、
      精神的負担はかなりあり、
      この地で恩返しをしていかなければならない宿命を感じた。

      自宅新築の頃、住所のどうしてもわからない方を除きお礼状を発送した。
      さすがの私も、ワープロで原稿を考え、手書きして、それをコピーして
      誠意をみせたつもりだが、所詮は1枚の葉書だけの御礼になってしまった。

      その後、近隣や職場の知人が火災にあったと聞き、すぐさまお見舞いにかけつけたり
      したものだが、礼状などは届かなかった。いろいろあるものです。

   22.役所等にて
      罹災による健康保険証、免許証は非常に親切に再発行してもらえた。
      当該年度の所得税、府市民税の返還、翌年度の免税などの特典を受けるためには、
      動産、不動産の被害明細を書かなければならなかった。
      下着に至るまですべて時価で書くらしい。記入していて思わず吹き出したりしたものだ。
      すべて思い出せるものでもないので、いい加減に書いたが、所詮その程度の書類で、
      総額によって特典が変わるものではなさそうだった。
      総額を見て被害の大きさをかみしめるものではあった。

   23.特別休暇と出勤開始
      自宅がなくなって、とても出勤する気にはならなかったが、
      1週間を過ぎた頃人事部長から連絡があった。
      いろいろあるだろうけれど、ぼつぼつ出勤してほしいと。
      結局、10日間特別休暇をもらって出勤とはあいなった。
      職場の役員さん、仲間達、部下達からもたくさんのお見舞いをいただいていたので、
      お礼の挨拶回りが大変だった。


   24.整地
      暇を見つけては、ごそごそと焼け跡探索を続け、
      回収物は地域の会館に提供していたリヤカーに積んで仮住まいへ持ち帰った。
      新年を迎えるまでに整地しなければ、見苦しいし、臭いも気になるし。
      業者を紹介してもらって整地が完了したのは30日のことだった。
      整地が済んだ敷地は、火事などなかったかのようにきれいになった。
      広く見えたり、狭く見えたり、人間の感覚はいい加減なものだ。

   25.間取り図
      今風の建物にするか、元のような木造にするか、本来なら大議論となるところだったが、
      お向いさんの奨めもあって、多少疎遠となっていた親戚の棟梁にお願いすることとなった。
      工務店を経営されているので棟梁とは呼ばないのかも知れないが。
      自宅にお伺いして正式にお願いしたところ、間取りなどを書いてきなさいとのこと。
      正月早々新居の間取りを考えるのは楽しいものだった。
      家族数を考えて、ちょっと欲張った間取りを持ち込んだところあっけなく没!
      素直に引き下がるのが私の特徴で、棟梁の考えもだいたいわかったので、
      さっそく書き直して持って行った。
      今となっても木造にしたことはよかったと思う。
      高齢の棟梁にとっては最後の居宅新築だった。

   26.地鎮祭、棟上
      2月8日に地鎮祭、3月21日棟上、8月5日引越しと続くわけですが、
      この頃になると心の傷もだいぶ癒えて、新しい家に対する夢がふくらんだものです。
      焼け跡の写真は不思議と新聞記事しか残っていないが、
      新築中はずいぶん写真を撮ったものです。
      (実はカメラ店の義兄が撮ってくれていました。渡すのが申し訳ないと10年後の
       2009年5月5日にいただきました。そのうち4枚を今日5月8日掲載しました。)


   27.家財道具など
      通常の建て替えでも、新築とともに新しい家具への買い替えなど、
      予定外の支出を覚悟しなければならないと思うが、
      今回の場合、家は出来ても何もないので、予算があろうとなかろうと買わねばならない。
      食卓テーブル、座敷机、応接セット、茶箪笥などは一生ものを、
      とかやってるうちに資金ショート。

   28.引越し後
      外壁、ガレージ、物干し、前栽。
      ウッドデッキは棟梁にあらかじめ了解を得て、
      フィンランドから輸入したログデッキにしたが、年末近くにようやく完成
      結局あらたな住宅ローンを組む羽目に、、、

   29.おしまい
      長かった被災生活は結局約1年で終わった。
      比較的恵まれた環境で再スタートできたことは、
      ご先祖様への感謝はもちろんだが、
      親戚、友人、知人、職場の方、ご近所の方など多くの方々の支援の賜物であり、
      将来にわたって地元への恩返しを心に誓って、
      我家の罹災記録をしめくくります。
      今後、なにか思い出したことがあれば、適宜付け加えていきたいと思っています。
      最後までお読みいただきありがとうございました。

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